・月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人のこころにぞすむ
(説明)眼をつむっていては月の光もわかりません、同じように心の眼、信の眼を開かなければ、今現にここに輝いている仏の光を拝むことが出来ない。ただ信の眼を開いてながむる人(お念仏申す人)にこそはっきりと拝むことが出来るとの意味のお歌です。
尊いことがあるにもかかわらず、その尊さに気がつかず、ありがたいことがあっても、そのありがたさを感ぜず、美しいこと、善いこと、などがあっても、それを見ることが出来ず、感ずることも出来ぬと言うのは、実はこちらの心にそれだけの値打ちがない証拠で、つまらない心の所有者であることを物語っているといわねばなりません。だから拝めぬことははずかしいことだといわねばならないということです。
・さへられぬ光もあるををしなべて
へたてかほなるあさかすみかな
(説明)太陽の日ざしは隔てようとすれば、山谷をおおっている木立ちのように、ある程度隔てるこことはできるかもしれない。それはちょうど、春の日の朝がすみが光を隔てているようなものである。それにしても、阿弥陀仏のすべての人たちを隔てることなく救ってあげようとする光明は、たとえ迷いの心をもち、罪深い者でも、念仏する者を照らし、往生の望みを満たして下さる。
・われはただほとけにいつかあふひぐさ
こころのつまにかけぬ日ぞなき
(説明) 葵祭りと呼ばれている賀茂社の夏祭りは、葵一色の祭りで、祭りの日、飾りとして簾などの端に葵をかける事になっている。その葵という草の名のように、いつの日か極楽浄土の阿弥陀仏にお会いできるであろうと、こころのはしにかけない日はない。その日の来るようにと、私は毎日、ひとえに念仏にはげんでいます。
・阿弥陀仏にそむる心の色にいては
秋のこづえのたぐひならまし
(説明)秋の深まる頃、枝先のもみじ葉は、夜となく昼となく、霜やしぐれに染められて、一段と美しさを増してくる。。お互い念仏にいそしむ者も、たえず念仏にはげみ、内にひそんでいる心(内心)が、ことばとなり態度に現れる(外相)ならば、さぞかし秋の梢が燃え立ち深い紅の色に染まるように、深く阿弥陀仏を信じ敬うことができるものです。
・雪のうちに仏のみ名を唱ふれば
つもれるつみぞやがてきえぬる
(説明)年の瀬の雪の日に勤める仏名会につらなり、阿弥陀仏のみ名を称え、犯してきた罪を悔い改めようと勤めれば、おのずと見も口も心も清められる。それは雪が日の光に照らされて消えていくように、積もり積もっているわが身の罪やけがれも、阿弥陀仏のあわれみいつくしむ(慈悲)心によって、たちまち消えてしまう。何と阿弥陀仏の慈悲はありがたいものであろうか。
・柴の戸にあけくれかかる白雲を
いつむらさきの色にみなさん
(説明)勝尾の山の草庵には朝な夕なに白い雲が去来しては、私の心をなぐさめてくれるというものの、老いさき短い私の身にとり、いつの日か世をさらなければならない。そのときあの雲を、阿弥陀仏の来迎の紫雲と仰ぎ見ることができるであろうか。早く浄土にお迎え下さることを願っています。
・阿弥陀仏と心は西にうつせみの
もぬけはてたる声ぞすずしき
(説明)蝉が殻からぬけでるように、迷いの心も余念も捨てさり、西方浄土への往生を願い、ひたすら念仏し、三昧の境地に入っていく。そうして念仏したときの心のさわやかさ、声のすがすがしさは、何にたとえようもないほど嬉しいものである。
・池の水人のこころに似たりけり
にごりすむことさだめなければ
(説明)この賀茂の房に住み、庭の池をつくづく眺めていると、その水は時には澄み、時には濁っている。人の心もそれに似て、ほとけ心が起こるかと思えばあとからあとから迷い心がでてきて、なかなか悟ることはできない。何とも心もとないことであろう。
・露の身はここかしこにきえぬとも
こころはおなし花のうてなそ
(説明)名残は尽きませんが、おくれ先立つは世のならいです。草葉の露のようにはかない私たちの命です。お互いの身が都ではてようともどこで果てようとも、共に極楽浄土の蓮の台でお会いしようという思いにかわりはありません。
・往生はよにやすけれどみな人の
まことのこころなくてこそすれ
(説明)往生することは、いともたやすいはずなのに、浄土への往生を願いながら、すべての人が往生できないのは、往生したいというまことの心をもって、念仏していないからである。誰でも、まことの心をもって、念仏し往生の願いをとげるようにしなければならない。
・阿弥陀仏と申すばかりをつとめにて
浄土の荘厳見るぞうれしき
(説明)念仏を毎日六日六万遍も、ひたすら称えていると、おのずから心が安定し、西方浄土の阿弥陀仏や浄土そのもののすがたも見ることができ、身も心も喜びにひたることができる。
