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寒山学校

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0016   寒山学校は一八九六(明治二十九年)年九月十五日創立
一九〇六(明治三十九年)年三月二十九日付けをもって文部省より私立寒山学校の認可を受け、長寿院を教場として開講した。高等小学校二年卒業程度の学力を有する者を対象として、広く師弟を集め、現在の新制中学校の義務教育程度を中心として学科は英語、漢学、数学、農業等で実習等も多く指導教示した。一九  (明治四十年)年四月有志者の寄付により、二階建て(間口六間、奥行三間)の新校舎を建設し移転学業を続ける。
新たに地理、歴史の二科を加え充実を期しさらに明治四十年年七月には、本科三ヶ年の機構を一、二学年をもって本科とし、学年を専攻科改め英、漢、数、の三学を授くるの変更許可を受けたのである。 開講当時の校長は、長寿院住職東京哲学館(現東洋大学)前田定運氏。その後、長寿院第二十六世の永井舜誠氏が校長となる。多くの卒業生を出したが一九四三(昭和十八年)年三月廃校となる。
境内奥に 一九三七(昭和十二年)年に卒業生が建てた謝恩碑がある。碑の高さは二、九メートル、幅一、三メートル。扁額は浄土宗大本山増上寺大僧正大島徹水師撰文は東京柴山川崎三郎、碑文は祖洞林大済嘱書撰 一九九一(平成三年)年には卒業生有志が謝恩碑の和訳説明看板を建てた。

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昭和十二年に謝恩碑を建てた。碑の高さ2.9メートル、幅1.3メートル。
扁額は浄土宗大本山増上寺大僧正大島徹水師撰文は東京柴山川崎三郎、碑文は祖洞林大済嘱書撰

昭和十二年に謝恩碑を建てた。碑の高さ2.9メートル、幅1.3メートル。
扁額は浄土宗大本山増上寺大僧正大島徹水師撰文は東京柴山川崎三郎、碑文は祖洞林大済嘱書撰

 

kanzan03平成3年には卒業生有志が謝恩碑の和訳説明看板を建てた。

寒山先生之碑

浄土宗大本山増上寺法主大僧正大島徹水扁額

 

 

身は方外に在りて学堂を創立し育英自ら任じて終始一のごとし 郷闔嚮化し以て文運を裨補す。 寒山前田定運師のごときは安んぞその徳を揚して之を勒せざるを得んや 師は長州の人なり 明治四年三月十日を以て生まるる考諱は兼蔵妣は神出氏 師はその五男なり幼にして聡敏 出塵の志有なり 浄土宗長命寺前田慈仁を投りて出家す二十四年笈を負ひて東上し増上寺竟譽大僧正に従ひて宗戒両脉を受く 師は自ら足ると為さず 哲学館に入りて発憤講学内外諸典に洞通し その業をおへて大学得業士の号を得たり 嘗峡に遊び永井誠本に師事す 推されて長寿院住職となり権大僧都に任ぜらる 是より先師は寒山学舎を興し子弟を薫陶す 遠邇より来たりて学ぶ者跡を絶たず 明治三十九年寒山学可を得て校舎を新設す。 大正二年第二校舎を増築し又女学校を創設し両学校長を兼任す。 独力経営終始力をつくしとして僊まず 浄土宗管長孝譽大僧正之を聞き 学事奨励金を出し之を襃賞す 校友謝恩の会を設け金襴袈裟一領を贈る 昭和二年七月一日病に罹りて化す春秋五十七 師は天資敦厚厳以て己を持し公以て事を處し子弟を導くに徳を以てす流風馨るがごとく桃季こみちを成す 頃者門人たがいに謀り碑を建てこれを不朽に伝へんと欲し来たりて余に文ももとむ 固辞するも可ならず 乃ち之に繋ぐに銘を以てす
銘に曰く 蹇々躬を匪し 育英国に報ず 於戯若人 誰か徳を仰がざらん

東京  柴山川崎三郎撰祖洞林大澄嘱
昭和十二年十月 寒山学校卒業生有志一同

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