寒山学校 山梨県笛吹市一宮町

令和3年(2021)年長寿院境内に新たに私立山梨寒山学校の沿革説明板を設置致しました。

寒山学校沿革説明版、後方は前田定運先生の謝恩碑

現在境内には、学校創立者の前田定運先生の謝恩碑と、和訳説明板があります。寒山学校は後世まで伝えたい峡東地域の教育の歴史であり、この度、台座を白御影石、説明板はステンレスエッチング工法として造りました。寒山学校卒業生、ご家族、関係者の方々に是非ご覧頂きたいと思います。

私立寒山学校

寒山学校は、長寿院を教場として明治二十九年(一八九六)九月十五日、住職前(まえ)田(だ)定運(ていうん)氏が塾を開設したのに始まる。
 その後、明治三十九年(一九〇六)三月二十九日付けをもって文部省より私立学校の認可を受け、定運の号をとって私立山梨寒山学校とした。
 創立者の前田定運氏の言葉に、
「青年処女の感化教育をして、社会を善導(ぜんどう)するは余の使命なり」
「余が平生宿志(しゅくし)のある所は素より宗教家にして営利を欲せず真理を楽しみ草(そう)茅(ぼう)に坐(ざ)して国を思ふ心のみ」
「余が教育に貢献する精神は、過去三十年来継続して今に至り、前後寸分(すんぶん)の異同(いどう)を覚えざるなり」
「如何なる難題の途(みち)に当たっても之を断行すべし。それは如何なる職業についても成功に至る」
「余謂ふに精神一統何事か成らざらん」
 本校生徒は、高等小学校二年卒業程度の学力を有する者を対象として、広く子弟を集め、地域的にも、一宮を始め御坂、石和、八代、春日居、山梨、勝沼などからの通学者もあった。
 教育課程、現在の義務教育程度を中心に中学科は修身、国語、漢文、数学(洋算・球算)、理科、英語、習字、農学で実習も多く指導教示した。
 明治四十年(一九〇七)四月有志の寄付を以て二階建て間口六間、奥行三間の新校舎を建設し、同年六月新たに地理、歴史の二科を加え漸次教育課程の充実を図った。さらに七月には、本科三ヶ年の課程を一、二学年をもって本科とし、三学年を専攻科と改め英、漢、数の三学を教授する変更許可を受けた。
 当時、県内は中等教育の学校は少なく就学は困難な時代であったが、峡東地域は恵まれており、特に農閑期を利用して教育したので通学者も増加した。
 大正二年(一九一三)浄土宗総本山知恩院第七十九世門(もん)主(す)・山下(やました)現有猊下(げんゆうげいか)並びに、卒業生、地方有志の寄付により第二校舎、間口四間半、奥行き三間の平屋を増築した。大正八年(一九一九)五月従来の学科のほかに理科の学科を加えた。また、同年寒山学校の女学校として至誠(しせい)實科(じっか)女学校(じょがっこう)を創設した。
 爾来寒山学校の卒業生は千二百有余名、県吏員、鉄道、小中学校長、地方自治名誉職、青年団幹部等に奉仕するもの百名の多きに達した。
 校長は創立者の前田定運氏(東京哲学館大学現東洋大学)に次いで、原(はら)清次郎(せいじろう)氏が就任し、後永井(ながい)舜誠(しゅんじょう)氏に引き継がれたが、太平洋戦争も次第に厳しさをました昭和十八年(一九四三)三月、国の教育行政方針もあり廃校となる。校舎は青年訓練所として使用することとなった。なお、寒山学校があった跡地は現在中央自動車道となっている。
 この寒山学校設立につき最も貢献したのは、旧一宮村長の深山元四郎(ふかやまもとしろう)氏である。
 境内「寒山先生の碑」高さ二・九メートル、幅一・三メートルは、昭和十二年(一九三七)有志、卒業生及び在校生が建て、右側の和文説明は、平成三年(一九九一)に卒業生深山(ふかやま)友(とも)雄(お)氏(昭和九年卒)が寄贈したものである。
寒山学校校長
長寿院第二十四世 前田定運  明治二十九年~昭和二年(一八九六~一九二七)
         原清次郎  昭和二年~昭和九年  (一九二七~一九三四)
長寿院第二十六世 永井舜誠  昭和九年~昭和十八年 (一九三四~一九四三)
   ここに寒山学校の概略を記して、寒山建学の精神を後世に伝える。
                   令和三年十月  宗 前 山  長 寿 院


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   寒山学校は一八九六(明治二十九年)年九月十五日創立
一九〇六(明治三十九年)年三月二十九日付けをもって文部省より私立寒山学校の認可を受け、長寿院を教場として開講した。高等小学校二年卒業程度の学力を有する者を対象として、広く師弟を集め、現在の新制中学校の義務教育程度を中心として学科は英語、漢学、数学、農業等で実習等も多く指導教示した。一九〇七(明治四十年)年四月有志者の寄付により、二階建て(間口六間、奥行三間)の新校舎を建設し移転学業を続ける。
新たに地理、歴史の二科を加え充実を期しさらに明治四十年年七月には、本科三ヶ年の機構を一、二学年をもって本科とし、学年を専攻科改め英、漢、数、の三学を授くるの変更許可を受けたのである。 開講当時の校長は、長寿院住職東京哲学館(現東洋大学)前田定運氏。その後、長寿院第二十六世の永井舜誠氏が校長となる。多くの卒業生を出したが一九四三(昭和十八年)年三月廃校となる。
境内奥に 一九三七(昭和十二年)年に卒業生が建てた謝恩碑がある。碑の高さは二、九メートル、幅一、三メートル。扁額は浄土宗大本山増上寺大僧正大島徹水師撰文は東京柴山川崎三郎、碑文は祖洞林大済嘱書撰 一九九一(平成三年)年には卒業生有志が謝恩碑の和訳説明看板を建てた。

昭和十二年に謝恩碑を建てた。碑の高さ2.9メートル、幅1.3メートル。
扁額は浄土宗大本山増上寺大僧正大島徹水師撰文は東京柴山川崎三郎、碑文は祖洞林大済嘱書撰

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平成3年には卒業生有志が謝恩碑の和訳説明看板を建てた。

寒山先生之碑

浄土宗大本山増上寺法主大僧正大島徹水扁額

身は方外に在りて学堂を創立し育英自ら任じて終始一のごとし 郷闔嚮化し以て文運を裨補す。 寒山前田定運師のごときは安んぞその徳を揚して之を勒せざるを得んや 師は長州の人なり 明治四年三月十日を以て生まるる考諱は兼蔵妣は神出氏 師はその五男なり幼にして聡敏 出塵の志有なり 浄土宗長命寺前田慈仁を投りて出家す二十四年笈を負ひて東上し増上寺竟譽大僧正に従ひて宗戒両脉を受く 師は自ら足ると為さず 哲学館に入りて発憤講学内外諸典に洞通し その業をおへて大学得業士の号を得たり 嘗峡に遊び永井誠本に師事す 推されて長寿院住職となり権大僧都に任ぜらる 是より先師は寒山学舎を興し子弟を薫陶す 遠邇より来たりて学ぶ者跡を絶たず 明治三十九年寒山学可を得て校舎を新設す。 大正二年第二校舎を増築し又女学校を創設し両学校長を兼任す。 独力経営終始力をつくしとして僊まず 浄土宗管長孝譽大僧正之を聞き 学事奨励金を出し之を襃賞す 校友謝恩の会を設け金襴袈裟一領を贈る 昭和二年七月一日病に罹りて化す春秋五十七 師は天資敦厚厳以て己を持し公以て事を處し子弟を導くに徳を以てす流風馨るがごとく桃季こみちを成す 頃者門人たがいに謀り碑を建てこれを不朽に伝へんと欲し来たりて余に文ももとむ 固辞するも可ならず 乃ち之に繋ぐに銘を以てす
銘に曰く 蹇々躬を匪し 育英国に報ず 於戯若人 誰か徳を仰がざらん

東京  柴山川崎三郎撰祖洞林大澄嘱
昭和十二年十月 寒山学校卒業生有志一同

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